なぜ僕は「宅建士」の次に「行政書士」を目指したのか?――“点”の知識が、“線”に変わった日

資格と勉強

あの日、僕はたしかに「パスポート」を手にした

宅地建物取引士の合格発表の日。 Webサイトで自分の受験番号を見つけた時の、心臓が跳ね上がるような高揚感は、今でも忘れられない。「これで、やっとスタートラインに立てた」。そう、本気で思った。

ご存知の通り、宅建士は不動産業界の「パスポート」だ。これさえあれば、不動産の世界のほとんどの場所へ行く資格が与えられる。僕も、そう信じて疑わなかった。

だから、僕は走り続けた。 宅建の次に「管理業務主任者」や「マンション管理士」といった、より専門的な武器も手に入れた。取引から管理まで、もう怖いものはない。そう、思っていた。

それなのに。 僕の心の中には、ずっと、何かが足りない、という感覚が燻っていたんだ。


目の前に立ちはだかる、知識の「壁」

宅建士や管理業務主任者の知識は、不動産という「現場」で戦うための、最高の武器だ。重要事項説明、契約書の作成、管理規約のチェック…。これらは、お客様の財産と暮らしを、確かに守ってくれる。

しかし、現場に立てば立つほど、僕の武器では、どうしても斬り裂けない、分厚い「壁」に、何度もぶつかった。

「『相続』という言葉は知っている。でも、相続人同士がもし揉めたら?その、人の感情が絡み合った話し合いを、どうやって、法的に有効な“形”にすればいい?」 「目の前のこの土地が、もし『農地』だったら?家を建てるには、どんな“許可”が、どこから必要なんだ?」 「お客様が『会社を作って不動産を所有したい』と相談してきた時、僕は、一体どんな“設計図”を、示してあげられるんだろう?」

これらの問いに、僕が持つ武器だけでは、満足な答えが出せない。 不動産取引という「点」の知識、管理という「線」の知識はあっても、その全てを貫く、社会の根幹をなす「法律」という、巨大な“面”が見えていなかった。

僕が本当に知りたかったのは、目の前の問題を解決するための「対症療法」じゃない。 なぜ、その問題が起きるのか。その根源を辿っていくと、いつも、巨大で、しかし美しい「法」という名の、OSに行き着くのではないか。 そう、気づいてしまったんだ。


行政書士の勉強で見えた「新しい景色」

その答えを求めて、僕は行政書士試験の分厚いテキストを開いた。 民法、行政法、会社法…。正直、その学習範囲の広さには、何度も心が折れそうになった。回り道をしているような気分になったことも、一度や二度じゃない。

しかし、ある瞬間、バラバラだった知識の点と点が、一本の線として繋がり、そして、美しい「面」として立ち上がる、あの感覚が訪れた。目の前が、パーッと開けるような、あの感覚。

それは、たとえるならこんな違いだった。

宅建士や管理業務主任者の知識が「この道路は通れますよ」「この建物のルールはこうですよ」と教える、優秀な“交通案内人”の知識だとしたら。 行政書士の知識は「なぜ、この道路が作られ、どんなルール(都市計画法など)で運用されているのか」という、街全体の“設計思想”そのものを理解するような感覚だった。

「遺産分割協議書」を学べば、人の感情を、どうやって法的な形に落とし込むかの、繊細な技術が分かる。 「農地転用」を学べば、眠っている土地の可能性を、どうやって解き放つかの、ダイナミックな視点が手に入る。 「会社設立」を学べば、不動産を、事業として捉える、より大きな経営者の視点が手に入る。

一つひとつの取引や、トラブルの背景に、広大な法律の世界が広がっている。 その世界の入り口に、僕は、ようやく立てた気がした。


資格という言葉を超えて

僕が行政書士試験の勉強から得たものは、「また一つ、資格が増えた」という、ちっぽけな事実じゃない。

それは、不動産という「点」を、人々の暮らしや社会という「面」で捉えるための、新しい「解像度の高いレンズ」だった。法律を学ぶことは、物事の本質を見抜く力を養う、最高のトレーニングだったんだと、今なら分かる。

もし、あなたが、今の自分の知識の、その先に広がる世界を見てみたいと願うなら。 そして、ただの「物知り」ではなく、物事の本質を理解する「本物の専門家」になりたいと、心から願うなら。

回り道に見えるかもしれない。 でも、その道の先には、きっと、今までとは全く違う景色が、広がっているはずだ。

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